2008年5月 2日 (金)

「飯田口説」調査報告 武山文衛氏

 この五月の「市報いしのまき」に掲載した 『飯田口説』 について、色々問い合わせがきているということなので、ネット上で少し詳しい内容を掲載してみる。口説全文については、このブログのカテゴリー「飯田口説」を参照願いたい。

これから紹介するのは、現石巻市生涯学習課長武山文衛氏が、かつての北上町広報誌『広報きたかみ』 に連載されたものである。ブログに再掲載のお許しをいただいたので、逐次掲載してみる。
 先ず、最近の新聞記事から
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 「飯田口説」の写本
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 この「飯田口説」の活字版は 北上町史 自然生活編の所載。

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「広報きたかみ」 1994年 6月号から
第一部 女川飯田口説の歴史考証
     第一章 女川飯田口説文書 
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 現存する最古の飯田口説文書は大船渡の佐々木氏所蔵という。
(注) 「仁平芝居」とは、北上町追波の鈴木健仁さんの曽祖父が一座を構えていたらしい。
第二章  事件発生から捕縛、処刑までの経緯
第三章  逃避及び護送の経路
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「広報きたかみ」1994年7月
第二部 ”女川騒動(飯田事件)の新たな展開
第一章 余命を捧げようとした小国堰改良工事
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第四章 浦安家 第五章捕縛
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広報きたかみ 1994年8月号
第三部ゆかりの地を尋ねて
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宮城県
019 020 021
岩手県
022 023
飯田家一族の供養祭
024 025 026
今後の調査課題
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 以上が武山文衛氏の『広報きたかみ』に連載された内容の総てですが、文責はご本人にあります。

2007年9月14日 (金)

飯田屋敷跡 北上町女川

 今日は、鈴鹿景子公演のチケットを買い求めに 追分温泉 へ行く。丁度社長の 横山宗一さんもいらっしゃって、コーヒーをご馳走になり、前売り券一枚もサービスをして頂いた。ありがとうございます。
 横山さんは、鈴鹿さんには是非、飯田屋敷跡や飯田家菩提寺の江林寺も見て欲しいということであったので、私も 追分温泉 の帰途、屋敷跡へ行ってみる。
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 翁倉山登山道への入り口でもある。
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 説明板は書き直さなければならない。
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 屋敷跡内にある三つの井戸の二つ。最後の井戸は日塔喜右衛門家の井戸と伝えられている。元の飯田家家中が井戸の保全や、氏神様の祭りを執り行っているという。
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 この神社の上方に物見櫓があるという。
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記念物の イチイ とツツジ
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池の跡。この周辺は近い内に除草作業をするつもりである。屋敷跡一帯の所有者である上野さんからの立ち入り許可は頂いている。

飯田口説(全編)

 石巻市北上町女川地区に伝わる 「飯田口説」 は 女優の 鈴鹿景子さん が新講談という形で公演するというので、一躍脚光を浴びることとなった。私もこのブログで2月9日から9回に亘って第二段までは紹介したが、色々アクセスが多いので、便宜上、一頁で全編を掲載したい。
 底本は 『北上町史』 自然生活編 による。
(便宜上、右頁からお読み願います)
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関連記事 カテゴリー 「飯田口説」

北上町史
  (全4巻5冊 頒価 10,000円)
 申し込み先 
   石巻市北上総合支所
    総務・企画課 0225-67-2111

  町史関連記事 7/11  釜神様
      

2007年2月15日 (木)

飯田口説」 日塔喜右衛門

 この人物についてはよく分かりません。重罪人として、極刑に処されたということで、記録も抹消されたとも考えられます。
 妻は事件後自害して果てたという。江林寺過去帳によれば
     「無残妙得禅定尼」四月二八日  日塔喜右衛門妻
 父は田代浜へ流罪。母は奴とされて下女の扱いであろう。
 現代では、このような刑罰はないが、しかし、家族の中から重罪人が出れば、勤めも辞め、住居も変えざるを得ないという点では、家族もまた社会的制裁を受けることには、変わりないともいえる。

飯田屋敷から水戸辺(みとべ)への逃走経路については、当時の谷多丸(やたまる)を通って水戸辺へ下りたことは間違いない。

_002_13 2_003           
最初の図は「ふるさとの旧街道」(河北地区文化財保護委員会」所収。③の谷多丸峠越え水戸辺街道(峠)
写真は我が家の裏山からの翁倉山。写真右手の最高峰が翁倉山山頂で標高532mで、桃生郡内一の高峰である。谷多丸地区は戦後一時期開拓地となったが、現在は無住の地区である。今も住居の跡や、風力発電の櫓跡が残る。
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写真は宮城県自然保護員(北上地区担当)佐々木茂美(しげよし)氏の提供による。平成18年11月

2007年2月14日 (水)

「飯田口説」 登場人物

飯田能登守道親
 正徳 4年(1714)  6月 生る  幼名 左門
 享保 8年(1723)  10歳 五代藩主吉村公拝謁 内蔵助と改
 享保19年(1734)  20歳 最初の妻一女を産。同年8月卒 行年19
 寛保 2年(1742)  28歳 父 興親 隠居
 延享 4年(1747)  33歳 出雲 と改
 延享 5年(1748)  34歳 申次 を勤める
 寛延 2年(1749)  35歳  2月 能登 と改。3月 近習を兼ねる 8月 小姓頭
 宝暦 2年(1752)  38歳 4月 卒 行年38
      以上は「女川飯田口説」考 西田耕三・編
            「藤原姓飯田氏系」抄 より年表を作成(chiba) 

 「伊達家臣世譜」巻の七   「女川(飯田)口説」 紫桃正隆著より
 能登道親
  延享5年5月 6代宗村公の時、申次となる
  寛延2年3月 近習を兼ね、この年8月小姓頭に転ず
           うち、病のため免ぜらる
  宝暦2年4月 暴死
           禄の半分を納め、その班をへらし、太刀上となす
                      上記引用を終わる

 前者の様子では順調に出世しているように見えるのだが、36、7歳の時に何か不都合が起きたのであろうか。口説では病気を偽って在郷に隠退し、乱行に明け暮れたかのように語られるのだが?やはり、19歳で死んだ妻が忘れられなかったのであろうか?

 お節
 出生は定かではないが、5代吉村公の落胤との説が有力であろう。口説では22歳とあるが、菩提寺江林寺過去帳から26歳であることは明らかである。これから逆算するとお節さんの生年は享保12年(1726)となる。永井村史によれば、吉村公が牡鹿半島に鹿狩りに来駕の折に土地の女に情をかけて生まれたのがお節さんだという。それが享保12年、藩公47歳の事という。
 これを桃生郡小野の、富田家(二千石)で引き取り、その後、西磐井郡西永井(現在の花泉町永井)の大塚伊豆幸頼の妹として育てられたようだ。そこから飯田家に嫁いだのがいつの事かは、不明である。
 ここで、仮に道親の父出雲が隠居となった前後に結婚したと仮定すると、お節さんは16歳前後であろうか。すると10年近くも放置された勘定になる。恨みも骨髄といったところか?
 ところで、吉村公のご落胤とすると、お節さんにとっては大きな不幸があった。父吉村公が宝暦元年(1751)12月24日に亡くなられている。事件はその喪も明けぬ4月の事である。後ろ盾たる藩公の死に、お節さんの心に、この世を儚む想いが宿ったのではあるまいか?
      日塔喜右衛門については、いずれまたのちほど・・・

 

 

2007年2月 9日 (金)

お節・喜右衛門逃走経路

 女川飯田家の騒動は史実には間違いないが、多くの謎に包まれている。語り物としての脚色も当然のことながら見受けられるが、これは当時の人々がお節・喜右衛門二人に寄せた同情の深さの成せるわざとも言えよう。
 現在、石巻市北上教育事務所長をつとめる武山文衛氏は、「飯田口説」の研究者として知られ、平成6年旧北上町の広報紙に
   女川騒動(飯田事件)の歴史を探る
 として、六月、七月、八月号に連載された。詳細にその足跡を尋ね登場人物の人となり等も検証しながら、史実と伝承のあわいを探ろうとしておられる。私も文化財保護委員としてこの方面には疎いのであるが、武山氏の教えを請いながら、共にこの「飯田口説」の意義を広く世に伝えたいと思う。 今や、ただ一人の語り部である武山武志氏も、高齢の域に達しており、長時間の口説の朗唱は難しくなっているようだ。

_001_5  _002_6         この逃走経路図は、武山文衛氏の制作になるものである。

飯田口説 (第二段)

 第二段(2)

 未踏なければ    水戸辺の宿よ     (みとべ)
 鳥の鳴く声      おもろの宿よ
 なおも足もと     早めで通る
 運の極めの     限りし事は
 能登の重代     名剣物を
 鞘を落として     身ばかり残す
 そこで喜右衛門   山へと登り
 藤をたぐりて     しっかと巻いて
 行けば程なく     折立浜よ
 そこで二人は     渚に下り
 手水うがいで     その身を清め
 南無や横山      御不動様よ
 たとえ我々       罪あるとても
 末をめでたく      守らせたまえ
 やがて祈念を     早打ちかけて
 そこで二人は     陸へと登り
 明けてよく日は    海浜通る
 さても怪しき      落人なりと
 昼は諸人に      目を付けられて
 そこで二人は     山へと登り
 昼は深山の      繁みに隠れ
 またも日暮れて    夜旅をなさる
 さてもいとしや     奥様事は
 荒き風にも       当たらぬ御身
 夜の泊まりは     野山に泊まり
 山路里路の      浮艱難に
 杖も柱も        喜右衛門一人
 怖さ辛さに       顔見合わせて
 行けば程なく      志津川町よ
 またも夜明けて    山へと登り
 笠を当座の      屏風になして
 仮の枕は       松の木の根
 されば奥様      お気持ち悪く
 そこで喜右衛門   驚きながら
 人の通わぬ     山奥なれば
 旅の用意の     薬も持たず
 お腰もんだり     お足をさすり
 心細くも        介抱なさる
 下の小袖を      上にと掛けて
 足の痛みに      歩みもならず
 まずはその日は   休息なさる
 既にその日も    西へと入れば
 森の子烏       皆騒ぎ立つ
 騒ぐ音にて      早目を覚ます
 思い出せば      涙を流す
 過ごし女川       屋敷の事を
 思い出せば      そら恐ろしや
 末の辛さを      ご案じなさる
 しおれ果てたる    涙の種よ
 思う男の        寝顔を眺め
 いとし殿御に     末代添わば
 ぐずな心は      未練な事よ
 しおれ心に      勇みを付けて
 たとえ野山に     住まいをしよと
 辛い呵責に      責めらるとても
 二人長らえ      居るものならば
 これに増したる    楽しみないと
 思う男の       膝揺り起こす

 

 

 

 

 

 
 

 

 

飯田口説 (第二段)

 第二段(1)

 郡境の      翁倉ゲ嶽よ    (翁倉山おきなくらやま)
 桃生一番     たけたる山よ    (桃生郡一)
 命限りと      峰へと登り
 登り極めて    暫く休み
 そこで喜右衛門 申さるようは
 主人殺して    逃れぬ我等
 たとえ何国へ   落ち行くとても
 天の網をば    逃れはせまい
 お前殺して    私も死んで
 長い未来で    添いとげましょう
 そぞろ涙で    申されければ
 そこで奥様    暫く思案
 これは愚かな  喜右衛門殿よ
 ここは思案の  要であろう
 死する命は   いと安けれど
 天を飛び行く  鳥類さえも
 妻と定めて   浮世を渡る
 天命逃れぬ   我々なれど
 広い世界に   ままあるものよ
 末はめでたき  蓬莱山の
 鶴と亀とに    会う事知れず
 畦の落穂を   拾うてなりと
 暮らす世界は  ままなる事よ  (よがい)
 せめて一日   身上を立てて
 比翼連理の   契りをこめて   (ひよくれんり)
 妻よ女房と   呼び呼ばわれて
 ややの一人も  もうけしならば
 あとは呵責に  責めらるとても
 いとう心は    少しもないと
 聞いて喜右衛門 誠と思い
 さらばこれから  落ちよというて
 二人手を取り   谷へと下る
 人の通わぬ    翁倉ゲ嶽を   (おきながたけ)
 根笹かや原    かき分けながら
 知らぬ山路を   ようよう下る
 
 
 

 

   
 

飯田口説(四)

 飯田口説第一段(4)

 表廊下を    忍んで行けば
 運の限りの   限りし事は
 旦那能登様   酒宴に疲れ
 表座敷に     丸寝をなさる
 通る足音     うつつに聞いて
 さても怪しや   何者なると
 誰じゃ誰じゃと  追いかけられて
 後を慕うて    追いかけられて
 今は喜右衛門  かなわぬものと 
 天命ながらも   我が身に替えぬ
 腰の刀を     するりと抜いて
 飛んでかかれば こは狼藉と
 能登の重代    するりと抜いて
 暫し戦い      勝負は見えぬ
 急ぎ奥様      それ見るよりも
 今は喜右衛門   現れたるか
 襖障子の      その陰よりも
 母の譲りの     長刀出して
 鞘を外して     表に廻り
 見れば喜右衛門 下太刀なるか
 いかに妻でも    余さずものと
 左手右手より    重ねて打てば    左手右手(ゆんでめて)
 敵二人に       能登様一人
 三太刀四太刀は  早打ち過ぎて
 六太刀七太刀    十三太刀よ
 旦那無残や     戌亥に転び
 修羅の地獄と    これをやいわん
 二人驚き       顔見合わせて
 そこで奥様      申さるようは
 御身為には      三代御主
 私が為には      大事な夫
 主人殺して      逃れぬ我等
 まずはその場を   落ちよというて
 二人手を取り    忍んで出る
 いかに喜右衛門  よう聞きたまえ
 そなた刀に     血が付きたるぞ
 旦那刀と      差し替えたまえ
 能登の重代    差し替えさせて
 孤月まろびつ   手を引き合うて     (孤月)こけつ
 しどろもどろに   足踏み締めて
 夜半に紛れて   落ち行くなれば

   第一段  了

     
  

2007年2月 8日 (木)

飯田口説(三)

 第一段(3)

 それが恋路の     種とやなりて
 文や玉章(たまずさ) 折り紙などを
 送り送られ       妹背の中よ
 四月五月は      屋敷に通い
 頃は八月        十五夜月よ
 旦那能登様      月見をなさる
 月見ながらも     酒宴と始め
 三味や太鼓に     鼓を入れて
 表座敷は        賑やかなれど
 裏の座敷は      奥様一人
 潮の干潟の      舵なき船で
 心細くも        浮世を恨む
 十四十五の      有明月よ
 見るに心は      なお恨めしく
 今宵夜もよし     月見をせんと
 硯引き寄せ      墨摺り流し
 鹿の巻筆       小椙の紙に
 思う恋路を      さらりと書いて
 文の上書き      喜右衛門殿と
 書いてその文     早送らるる
 思う喜右衛門     開いてみれば
 今宵忍べと      書れし文よ
 さればこれから    忍ばんものと
 急ぎ寝間にて     装束なさる
 下に白無垢      羽二重小袖
 上は丹後の      絹裏付よ
 帯は小緞子      甲斐絹の羽織
 足袋は真岡に     塗り緒の雪駄
 親の譲りの       大小差して
 御高祖頭巾で     目ばかり出し
 表御門は        厳しき故に
 裏の御門を      忍んで行けば
 兼ねて合図の     約束なれば
 急ぎ奥様        お裏へ廻り
 雨戸開いて       早立ち迎え
 これへこれへと     手に手を取りて
 二人御寝間の      座敷に座り
 心残さず         浮世を話し
 私とお前は        こうなるからは
 たとえ火の中      水底までも
 修羅の地獄で      責めらるとても
 二人もろとも       離れはせまい
 そこで奥様        申さるようは
 一世ばかりは      思いの種よ
 二世も三世も      また先の世も
 末の松山         波越すとても
 変わるまいぞや     変わらずものと
 堅い定めの       起請を書いて
 そこで奥様        申さるようは
 もはや今宵も      子の時なれば
 名残惜しくも       お帰りあれと
 いえば喜右衛門     別れを惜しみ
 名残惜しくも       御寝間を急ぐ
 さらばさらばと      別れて出る 
  

飯田口説

 第一段(2)

 内の奥様      お節というて
 年は二十二で   今咲く花よ
 いらぬ花よと    振り捨てられて
 無念涙で      月日を送る
 能登の家中の   御用人役に
 苗字日塔      名は喜右衛門よ
 年は二十九で    器量よき男
 しかも喜右衛門  お茶の間御番
 茶の間座敷は   喜右衛門一人
 そこで奥様     心を寄せて
 茶の間障子を    さらりと開けて
 見れば恋しき    喜右衛門一人
 なおも奥様      飛び立つばかり
 金の屏風に     立ち寄りかかり
 顔に袖あて     小声になりて
 何と喜右衛門    徒然じゃないか
 そこで喜右衛門   うろたえ顔で
 頭地に付け      こは奥様よ
 私は御奉公で    是非なきものよ
 あなた徒然は    増々べくと
 いえば奥様     座敷に座り 
 火取り引き寄せ   煙草をあがり
 四方の話を     暫くなさる
 そこで奥様     申さるようは
 いかに喜右衛門  よう聞きたまえ
 私は深山の     繁みの桜
 さては野に咲く   主なき花よ
 いらぬ花よと    振り捨てられて
 無念ながらも    月日を送る
 花を欲しくば    一枝折られ
 そこで喜右衛門  申さるようは
 花を欲しさは    限りがないが
 梢高くて       折られはせまい
 そこで奥様     申さるようは
 さても愚かや    喜右衛門殿よ
 梢高くば       登りて折られ
 雪と氷は      隔てがあれど
 解けて流るる   谷川水よ
 梅と桜は      隔てがあれど
 散りて落ちれば  木の根に帰る
 月と水とは     移りが早い
 時を移せば    流るる水よ
 忘れたもうな   喜右衛門殿よ
 心残して      お帰りなさる

 

飯田口説(はんだくどき)

 _003_3           少しかたい話が続いて私も飽きてきたので、陽気もいいことだし、
 少し柔らかめの話をしたい。
  当地、北上町女川地区に伝わる、お家騒動の悲恋物語である。女川騒動とも云われるが、飯田口説とよぶのが通例である。
 今から255年前の宝暦二年(1752)に、現在の石巻市北上町字女川で起こった事件が、いつの頃か纏められ、地元の古老によって語り継がれて来たものである。  
 石巻市出身の女優、鈴鹿景子さんがこれを脚色したものを演ずるということで、一躍話題になったので、知る人も多いと思うが、ここにネット上でも紹介してみたい。

_002_4原本は画のような筆書きであるが、今は分かり易く「北上町史」自然生活編に掲載されているので、それを参考にする。(上記553頁~57頁 )   
 構成は事件の発端から、南部藩領で捕縛され、七北田刑場で処刑されるまでの様子を、五段に構成され、七七調の独特の節回しで、哀切感ただよう語りで永く伝承されてきたが、これを語り次いできた二人の古老も亡くなってしまった。千石恒雄氏と上野萬氏である。幸いにして、お二人の語ったテープだけは、手に入ったが、これを語り次ぐのは大変である。なにしろ全五段1時間半の語りである。

第一段

  色は思案の  外とはいえど
  昔故実を    尋ねてみれば
  鳥の教えし   妹背の路よ
  内裏上臈も   お公家も武家も
  恋は誠の    路とは定め
  仁義五常も   恋より起こる
  色で丸めし   世の中なれば
  色と恋とは   是非なきものよ
  高き賤しい   上下はなきよ
  故をいかにと  尋ねて聞けば
  国は奥州    桃生の郡
  村を申せば   北女川よ
  四十五貫の   御知行取りで
  飯田能登とて  名高き人よ
  お家一族     座敷は二番
  当時お役は   御申次よ
  今度ご奉公で  仙台詰めよ
  かねて能登様  深色好きで
  奉公務めは   気詰めとありて
  病気つくりて   お願い挙げて
  急ぎ女川     在郷なさる
  在郷屋敷で    わがままなさる 
     (庭や池の様子12節は省略)
  内の寵愛      おりえにおつよ
  おりえ十六     おつよは十九
  花のごとくに    化粧をさせて
  左手右手より   歌わせ舞わせ
  それも栄華の   不足とありて
  下の家中の    娘や嫁を
  眉目がよければ 座敷に上げて
  酌を取らせて   唄酒盛りよ
  あまり栄華の   過ぎたる故に
  今度お家に    大事がござる

  以下は、追々にUPしたいと思うが、思うに任ぬ 世のならい、かたがたしばしの 猶予やいかに! と段々芝居がかってきましたな。  
 yataさん、こんなものでいかがでしょうかね?