2014年9月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        

最近のトラックバック

最近のコメント

フォト
無料ブログはココログ

2010年11月 4日 (木)

松葉の曼荼羅について

この11月3日は 飯田口説 のお節さんの命日(258回)ということで、仙台市 新寺小路の 得生山善導寺 では一年に一回だけの松葉の曼荼羅ご開帳があった。
 当日、参拝に訪れた佐々木茂美・裕子さんご夫妻にお話を聞き、又、写真の提供を頂いたので、紹介してみる。

 善導寺さんを紹介する各種のサイトを調べても、松葉の曼荼羅を取り上げている、サイトは無いようなので、紹介してみる。

 松葉の曼荼羅とは?
 これは、現在の石巻市北上町で、今から258年前の 宝暦二年(1752)四月に起きた女川飯田事件に関係している。

 領主の飯田能登道親の妻 お節と側用人の日塔喜右衛門との不義密通が露見して、二人は主を惨殺して南部領釜石まで逃走する。
 しかし、一ヶ月程(5月19日)で捕縛されて二人は仙台城下へと護送される。

 (この捕縛地については小国において、喜右衛門堰 と言われる用水路の築造をしたと伝わっているが、時間的には無理と思われるので、恐らくは設計の方法や技術的な知識を伝授したものと思われる。)

 罪状判決の下る5ヶ月程の入牢中に、お節さんは、自らの帯を解いて松葉を針代わりにして(獄中で針は手に入らない)、阿弥陀如来像を制作した。
030_4 026_4 025_4

(写真撮影 佐々木茂美氏 提供)

 磔の当日、11月3日に刑場に向かう途中に、護送の者が、遍照寺門前の閻魔堂に投げ入れたものと伝わる。
何時の頃か遍照寺は廃寺となり、松葉の曼荼羅は得生山善導寺に所蔵されている。
(善導寺は2代藩主忠宗公夫人得生院の菩提寺で、吉村公からみれば祖母にあたるのかな)

 後年、この事件が 女川飯田口説 として悲恋物語風に潤色された形で、言い伝えられ、往時は仁平芝居として、巷間紅涙を誘ったと古老の話に聞く。
 単なる虚構とは違い、一定の史実に基づいているだけに、二人の悲運の生涯は聞く人々の心に深い哀れみと同情を誘ったに違いない。

 とりわけお節さんは、伊達家5代藩主吉村公のご落胤説が有力で、享保12年(1727)吉村公が牡鹿半島に鹿狩りに来駕のおり、土地の女に情を掛けて、生まれたのがお節さんといわれる。(時に吉宗公47歳)
 これを小野2000石の富田家で養育し、その後、西永井(現花泉町)の領主大塚伊豆幸頼(190石)の妹として、飯田家に嫁いでいる。
恐らくは家格を合わせるためではないかと想像される。

 ところで、5代藩主吉村公は四男宗村に藩主の座を譲って隠居しているが、この事件が起こる前年の宝暦元年12月24日に72歳で没している。
 これも想像であるが、これまで何くれと陰ながら支えてくれたであろう、先代吉村公の卒去は、お節さんの心にも無常の想いを抱かせたのではあるまいか。
 先代存命中ですら、蔑ろにされて来た身である。これからはどうなることか???

 仙台藩刑罰記によれば、
                日塔喜右衛門は 凡下に落とし
          七北田に於いて磔 
                     (付加刑として)
                    札の辻において三日晒し
          竹鋸挽き市中引晒

          お節さんは 凡下に落とし 七北田に於いて磔
          (付加刑たる市中引晒はなく、唐丸かごで刑場まで護送された
          ものと思われる。)
 牢舎において、罪障消滅を願って一心に 阿弥陀如来像を刺繍するお節さんにたいしては、牢役人たちも現藩公の妹君にあたられるお方であるから、相応の心遣いはあったものと思われる。

 (ところで七北田刑場には、当初、処刑者の霊を弔うということはなかったが、延享二年(1745) 吉村公夫人長松院の遺言によって、念仏堂が建立されたというが、まさかここで、夫たる藩公の娘が処刑されるとは、夢にも思わなかったでしょうが、何か因縁を感じさせられる。)

 善導寺に所蔵されている曼荼羅は、専門家から見れば、芸術作品としての完成度は低いのかも知れないが、何かと不自由な中で、限られた時間で仕上げられたものであるから、完成度はさて置いて、歴史的な作品として文化財としての価値は充分にあると思うが
どうであろうか?

 因みに佐々木裕子さんは、これをモチーフにした 『お節月光』 という詞を作っているが、プロの手による作曲も間もなく完成するようである。
 完成の暁にはこのブログでも試聴出来るようにお願いしたい。

 言葉不足の点はこのブログのカテゴリー 飯田口説 を参照願いたい。
  

2010年11月 1日 (月)

仙台藩 七北田刑場跡

 勤務明けの今日は朝から雨という事で、かねてから計画していた七北田詣でを実行する。
 九時の勤務明けとともに仙台へ向かう。泉区への最短距離はどうなのかは知れないが、取り敢えず運転免許センターへ向かう。

 泉中央から4号線に入るが、皆目見当がつかない。

 ネットで検索をかけても、七北田杉ノ田では分かりづらい。そこで、泉区役所の担当課へ電話をいれて、場所をお訊ねする。すしおんど というお店の駐車場から電話をしていたのだが、何のことはない直ぐ真向かいに刑場跡の看板があった。ただ、路上駐車はできないので、杉ノ田交差点を左折して100Mほどで細い道を左折すると、国道より一段高い道路にでる。少し行くとマンションと民家の間にこじんまりとした雰囲気で刑場跡の看板がある。
Cimg0495 Cimg0498 Cimg0497
お節地蔵さん。花が供えられています。
Cimg0496
 周囲はこんな感じです。下の道路は4号線仙台方向から泉中央方向へ向かう車。
Cimg0500 Cimg0503
 4号線より一段高い堤防の上の道路ですから、普通に車で走っていては気が付きませんね。
 すしおんど八乙女中央店 の真向かいの土手上です。
Cimg0505


 これで気になっていたお勤めを一つ果たしたような気分で、近くの カフェレストランガスト で昼食を摂りながら記事をUP。今夜ユックリと記事に手を入れたいと思う・
すしおんど 店内から見ていると、時折、カメラを手に刑場跡を歩く姿が見える。明後日がお節さんの命日ということなので、訪れる人もあるのかも知れない。
そうした人々にこのブログが少しでも役に立つならこんな嬉しいことはない。
Cimg0501 Cimg3771
七北田刑場跡
仙台市泉区八乙女中央一丁目52-1(旧表示は杉ノ田)
このためにいくらネットで検索してもヒットしなかったわけですね。
Cimg0504
地図は昭文社発行ライトマップル宮城県道路地図
http://www.mpple.co.jp/

2010年10月31日 (日)

「水を引いた男」日塔喜右衛門 悲運の生涯 横道廣吉編著

 このところ 女川飯田口説 に関連して、色々と調べていたのであるが、お節・喜右衛門が最後に捕縛されたという 岩手県下閉伊郡川井村の小国堰が、実は日塔喜右衛門の指導によってなされたという言い伝えがあるという。
 そこで、著者の 横道廣吉(ひろきち)氏に電話を入れて、著書の在庫を確認すると、追分温泉 に置いてあるというご返事であった。
 今朝、追分温泉 に電話を入れて確認をすると、間違いなくあるということで、自宅をでる。序に途中の江林寺、そして飯田屋敷跡に立ち寄って写真に収める。

 江林寺と飯田能登の墓。寺には飯田口説関係資料が保存されている。
Cimg3737 Cimg3738
 ついで飯田屋敷跡。入り口の石垣が往時のものと伝えられる。
Cimg3754  Cimg3753

説明の看板
Cimg3751 Cimg3752
 右の説明板が酷く汚れている。これは直ぐに掃除をしなければならい。

 本道に出て追分温泉に向かうが、途中の渓流も私の好きな景色なので、所々UPしてみる。
Cimg3741 Cimg3742 Cimg3743
 奥入瀬の渓流ならぬ、追分の渓流 と名付けて一人悦に入っている。青葉の季節も紅葉も水のせせらぎを聞きながら歩くのも素敵です。(約2km)

 喜右衛門さんも金山への往復にこの渓流を通ったのでしょうか?

 途中には追分の自然湧水があり、水を汲みに来る人も多い。
Cimg3740
小雨に佇む追分温泉です。
Cimg3745 Cimg3746 Cimg3747

社長愛蔵のクラシックカー
Cimg3748 Cimg3750

 飯田口説の日塔喜右衛門はこの奥にある金の採掘に係わっていたのではないかと思われ、水路の修築などの農業土木的な技術もあったのでしょう。
 

 ここから本題です。
Cimg0485 Cimg0487
 史実を縦糸とすれば、口碑、伝説を横糸として編まれた物語ということでしょうか。

 日塔喜右衛門が、逃亡先の川井村で用水路築造の指導をしており、長くその功績が言い伝えられているという話です。
Cimg0488
 著者の横道廣吉氏は川井村役場を退職後、地域で幅広い活動をなさっているようです。
二人の逃走経路図と伊達刑罰記抄(同書より)
Cimg0489 Cimg0490
 尚、飯田口説では釜石で捕らわれたことになっているが、川井村にかかる伝承がある以上は、小国堰への関与を否定することは出来ないと思われる。

 その後、川井村の研究者の皆さんと、現石巻市北上町の武山文衛氏らの間に交流の輪が広まっている。(写真資料参照)
 11月3日に仙台の善導寺において、松葉の曼荼羅公開の事を話すと、それはご存知なかったようである。

 横道さんとは、私も一度お会いしてお話を聞きたいものだと思っている。

2010年10月29日 (金)

松葉の曼荼羅 公開 得生山 善導寺

 今夜、佐々木茂美さんから電話が入って、11月3日の 松葉の曼荼羅 公開には行って見るとの返事であった。奥さんの佐々木裕子さんは 『お節月光』 という飯田口説のお節さんをモチーフに作詞をしており、是非みて欲しいと願っていた。
 善導寺の奥様のお話では、お節さんが処刑されたという11月3日に1日だけ公開しているとのことでした。午前10時から午後5時まで。

善導寺観光案内
http://www.miyatabi.net/miya/sendai/zendouji.html

善導寺概要: 善導寺の創建は天正5年(1577)に伊達晴宗の家臣だった横塚縫ノ助が出家し米沢に西蓮院を開山したのが始まりとされます。豊臣秀吉の奥州仕置きにより伊達政宗が岩出山に移封するとそれに随行し、仙台開府後の慶長15年(1610)頃にに現在地に移ってきています。三世分波和尚の時、善導寺と名を改め、寛永19年(1642)に得生院(2代藩主忠宗の側室、3代藩主綱宗の母親)の菩提を弔う事になります。境内には享保年間に建築されたという三間一戸、切妻、瓦葺の楼門があり、本堂脇には仙台藩お抱え刀工の本郷国包(各代とも名工として全国的に名を馳せていますが、特に初代山城大掾国包は作品的にも優れていて文化財指定になっているものも数振あるそうです。)の初代から十三代目までの墓所や得生院の墓所があります。(以上引用おわる)

 善導寺を訪問した方のブログがあったので、紹介してみる。

http://aihide.blog42.fc2.com/blog-date-20090826.html
 中々由緒あるお寺さんですね。南門から西門への通り抜けは許されているようですね。さすが度量も大きいですね。


 どこにも 松葉の曼荼羅の話題は出てこない。

 飯田口説 では  七北田での処刑の前に、市中引き回しの途中に 遍照寺門前の閻魔堂に投げ込んだものといい伝えられている。
 真言宗遍照寺は何時の頃か廃寺になったらしいが、旧仙台第二女子高のある場所が廃寺跡と言われているようである。物語では遍照寺門前の閻魔堂とあるが、どういう訳で善導寺に伝わったのか、知りたいところです。
 尚、記録ではお節さんの市中引き回しの刑はなかったという事が下記のページに記されている。

 「女川飯田口説・詳説」
 宮千代加藤内科医院のホームページ コチラ

 ブログTARO'S CAFE 
 
  2006年1月16日(月)  七北田刑場跡コチラ
 
2006年2月2日(木)   続・七北田刑場跡コチラ
 
2006年2月3日(金)   続・続・七北田刑場跡コチラ
 
2006年2月4日(土)   補遺 コチラ

2008年5月 2日 (金)

「飯田口説」調査報告 武山文衛氏

 この五月の「市報いしのまき」に掲載した 『飯田口説』 について、色々問い合わせがきているということなので、ネット上で少し詳しい内容を掲載してみる。口説全文については、このブログのカテゴリー「飯田口説」を参照願いたい。

これから紹介するのは、現石巻市生涯学習課長武山文衛氏が、かつての北上町広報誌『広報きたかみ』 に連載されたものである。ブログに再掲載のお許しをいただいたので、逐次掲載してみる。
 先ず、最近の新聞記事から
028 029
 「飯田口説」の写本
030 032 031
 この「飯田口説」の活字版は 北上町史 自然生活編の所載。

001_3 002_3 003_2

「広報きたかみ」 1994年 6月号から
第一部 女川飯田口説の歴史考証
     第一章 女川飯田口説文書 
004_3 005 006
 現存する最古の飯田口説文書は大船渡の佐々木氏所蔵という。
(注) 「仁平芝居」とは、北上町追波の鈴木健仁さんの曽祖父が一座を構えていたらしい。
第二章  事件発生から捕縛、処刑までの経緯
第三章  逃避及び護送の経路
007 008
「広報きたかみ」1994年7月
第二部 ”女川騒動(飯田事件)の新たな展開
第一章 余命を捧げようとした小国堰改良工事
009 010 011
第四章 浦安家 第五章捕縛
012 013 014
015
広報きたかみ 1994年8月号
第三部ゆかりの地を尋ねて
016 017 018
宮城県
019 020 021
岩手県
022 023
飯田家一族の供養祭
024 025 026
今後の調査課題
027

 以上が武山文衛氏の『広報きたかみ』に連載された内容の総てですが、文責はご本人にあります。

2007年9月14日 (金)

飯田屋敷跡 北上町女川

 今日は、鈴鹿景子公演のチケットを買い求めに 追分温泉 へ行く。丁度社長の 横山宗一さんもいらっしゃって、コーヒーをご馳走になり、前売り券一枚もサービスをして頂いた。ありがとうございます。
 横山さんは、鈴鹿さんには是非、飯田屋敷跡や飯田家菩提寺の江林寺も見て欲しいということであったので、私も 追分温泉 の帰途、屋敷跡へ行ってみる。
018_2 011_2
 翁倉山登山道への入り口でもある。
012_2 013_2
 説明板は書き直さなければならない。
008_2 002_4
 屋敷跡内にある三つの井戸の二つ。最後の井戸は日塔喜右衛門家の井戸と伝えられている。元の飯田家家中が井戸の保全や、氏神様の祭りを執り行っているという。
005_2 007_2
 この神社の上方に物見櫓があるという。
016_2 004_2
記念物の イチイ とツツジ
003_3
池の跡。この周辺は近い内に除草作業をするつもりである。屋敷跡一帯の所有者である上野さんからの立ち入り許可は頂いている。

飯田口説(全編)

 石巻市北上町女川地区に伝わる 「飯田口説」 は 女優の 鈴鹿景子さん が新講談という形で公演するというので、一躍脚光を浴びることとなった。私もこのブログで2月9日から9回に亘って第二段までは紹介したが、色々アクセスが多いので、便宜上、一頁で全編を掲載したい。
 底本は 『北上町史』 自然生活編 による。
(便宜上、右頁からお読み願います)
003_2001_4002_3
009007005
014013011
018017016
023021019
029027025
031
004006008
012022020_2
032024028

010015026
030
関連記事 カテゴリー 「飯田口説」

北上町史
  (全4巻5冊 頒価 10,000円)
 申し込み先 
   石巻市北上総合支所
    総務・企画課 0225-67-2111

  町史関連記事 7/11  釜神様
      

2007年2月15日 (木)

飯田口説」 日塔喜右衛門

 この人物についてはよく分かりません。重罪人として、極刑に処されたということで、記録も抹消されたとも考えられます。
 妻は事件後自害して果てたという。江林寺過去帳によれば
     「無残妙得禅定尼」四月二八日  日塔喜右衛門妻
 父は田代浜へ流罪。母は奴とされて下女の扱いであろう。
 現代では、このような刑罰はないが、しかし、家族の中から重罪人が出れば、勤めも辞め、住居も変えざるを得ないという点では、家族もまた社会的制裁を受けることには、変わりないともいえる。

飯田屋敷から水戸辺(みとべ)への逃走経路については、当時の谷多丸(やたまる)を通って水戸辺へ下りたことは間違いない。

_002_13 2_003           
最初の図は「ふるさとの旧街道」(河北地区文化財保護委員会」所収。③の谷多丸峠越え水戸辺街道(峠)
写真は我が家の裏山からの翁倉山。写真右手の最高峰が翁倉山山頂で標高532mで、桃生郡内一の高峰である。谷多丸地区は戦後一時期開拓地となったが、現在は無住の地区である。今も住居の跡や、風力発電の櫓跡が残る。
_002_10 _004_2          _003_6          

写真は宮城県自然保護員(北上地区担当)佐々木茂美(しげよし)氏の提供による。平成18年11月

2007年2月14日 (水)

「飯田口説」 登場人物

飯田能登守道親
 正徳 4年(1714)  6月 生る  幼名 左門
 享保 8年(1723)  10歳 五代藩主吉村公拝謁 内蔵助と改
 享保19年(1734)  20歳 最初の妻一女を産。同年8月卒 行年19
 寛保 2年(1742)  28歳 父 興親 隠居
 延享 4年(1747)  33歳 出雲 と改
 延享 5年(1748)  34歳 申次 を勤める
 寛延 2年(1749)  35歳  2月 能登 と改。3月 近習を兼ねる 8月 小姓頭
 宝暦 2年(1752)  38歳 4月 卒 行年38
      以上は「女川飯田口説」考 西田耕三・編
            「藤原姓飯田氏系」抄 より年表を作成(chiba) 

 「伊達家臣世譜」巻の七   「女川(飯田)口説」 紫桃正隆著より
 能登道親
  延享5年5月 6代宗村公の時、申次となる
  寛延2年3月 近習を兼ね、この年8月小姓頭に転ず
           うち、病のため免ぜらる
  宝暦2年4月 暴死
           禄の半分を納め、その班をへらし、太刀上となす
                      上記引用を終わる

 前者の様子では順調に出世しているように見えるのだが、36、7歳の時に何か不都合が起きたのであろうか。口説では病気を偽って在郷に隠退し、乱行に明け暮れたかのように語られるのだが?やはり、19歳で死んだ妻が忘れられなかったのであろうか?

 お節
 出生は定かではないが、5代吉村公の落胤との説が有力であろう。口説では22歳とあるが、菩提寺江林寺過去帳から26歳であることは明らかである。これから逆算するとお節さんの生年は享保12年(1726)となる。永井村史によれば、吉村公が牡鹿半島に鹿狩りに来駕の折に土地の女に情をかけて生まれたのがお節さんだという。それが享保12年、藩公47歳の事という。
 これを桃生郡小野の、富田家(二千石)で引き取り、その後、西磐井郡西永井(現在の花泉町永井)の大塚伊豆幸頼の妹として育てられたようだ。そこから飯田家に嫁いだのがいつの事かは、不明である。
 ここで、仮に道親の父出雲が隠居となった前後に結婚したと仮定すると、お節さんは16歳前後であろうか。すると10年近くも放置された勘定になる。恨みも骨髄といったところか?
 ところで、吉村公のご落胤とすると、お節さんにとっては大きな不幸があった。父吉村公が宝暦元年(1751)12月24日に亡くなられている。事件はその喪も明けぬ4月の事である。後ろ盾たる藩公の死に、お節さんの心に、この世を儚む想いが宿ったのではあるまいか?
      日塔喜右衛門については、いずれまたのちほど・・・

 

 

2007年2月 9日 (金)

お節・喜右衛門逃走経路

 女川飯田家の騒動は史実には間違いないが、多くの謎に包まれている。語り物としての脚色も当然のことながら見受けられるが、これは当時の人々がお節・喜右衛門二人に寄せた同情の深さの成せるわざとも言えよう。
 現在、石巻市北上教育事務所長をつとめる武山文衛氏は、「飯田口説」の研究者として知られ、平成6年旧北上町の広報紙に
   女川騒動(飯田事件)の歴史を探る
 として、六月、七月、八月号に連載された。詳細にその足跡を尋ね登場人物の人となり等も検証しながら、史実と伝承のあわいを探ろうとしておられる。私も文化財保護委員としてこの方面には疎いのであるが、武山氏の教えを請いながら、共にこの「飯田口説」の意義を広く世に伝えたいと思う。 今や、ただ一人の語り部である武山武志氏も、高齢の域に達しており、長時間の口説の朗唱は難しくなっているようだ。

_001_5  _002_6         この逃走経路図は、武山文衛氏の制作になるものである。

より以前の記事一覧